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マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルク (1607-1675) : ミニ英和和英辞書
マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルク (1607-1675)[れい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull

マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルク (1607-1675) : ウィキペディア日本語版
マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルク (1607-1675)[れい]
マリー・エレオノーレ・フォン・ブランデンブルクMarie Eleonore von Brandenburg, 1607年4月1日 ケルン - 1675年2月18日 バート・クロイツナハ)は、ドイツブランデンブルク選帝侯家の公女で、プファルツ=ジンメルン=ラウテルンルートヴィヒ・フィリップの妻。
== 生涯 ==
ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒとその2番目の妻でプロイセンアルブレヒト・フリードリヒの娘であるエレオノーレの間の一人娘として生まれた。母は産後の肥立ちが悪く生後8日目に急死、老齢の父も翌1608年の年明けに死去したため、生後半年で孤児となった。叔父のブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン(父の異母弟)と伯母のマリー(母の姉)の夫婦に引き取られて養育された〔Ernst Daniel Martin Kirchner: ''Die Churfürstinnen und Königinnen auf dem Throne der Hohenzollern'', Wiegandt & Grieben, 1867, S. 173〕。
1631年12月4日にベルリンの近郊ケルン(Cölln)において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の弟ルートヴィヒ・フィリップと結婚した。夫は三十年戦争で家族とともに故国を追われ、長く亡命生活を送っていた。翌1632年にスウェーデン軍がプファルツ選帝侯領を一時的に皇帝軍から解放した際、エレオノーレは選帝侯領の摂政に任命された夫に従ってプファルツへ移った。ところが1634年にネルトリンゲンの戦いの後、皇帝軍が再びプファルツを占拠したため、夫妻はスダンへの亡命を余儀なくされた。夫妻は三十年戦争の終結とともに帰国した。
1655年にルートヴィヒ・フィリップが死ぬと、その甥のプファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒが、エレオノーレの息子ルートヴィヒ・ハインリヒ・モーリッツの後見人になると宣言し、プファルツ=ジンメルン公領を占拠した。マリー・エレオノーレは甥孫のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムに手紙を書き、自分の苦境を訴えて、自分をジンメルン公領の摂政に据えさせるよう頼み込んだ。神聖ローマ皇帝フェルディナント3世は1655年7月6日、エレオノーレをジンメルン公領の正統な摂政とする勅裁を下した〔Pauline Puppel: ''Die Regentin'', Campus Verlag, 2004, S. 92〕。エレオノーレは1658年に摂政を退き、息子に実権を委ねた。
1674年に息子が子供のないまま死去すると、ジンメルン公領は本家の選帝侯領に回収された。エレオノーレは本拠のカイザースラウテルンを退き、翌1675年に隠棲先のバート・クロイツナハで没した。遺骸はジンメルン(現在のドイツラインラント=プファルツ州ライン=フンスリュック郡)のザンクト・シュテファン教区教会(Stadtkirche St. Stephan)に葬られた。エレオノーレは神学者ヨハンネス・コッケイウスJohannes Coccejus)の後援者で2人の間には膨大な数の往復書簡が交わされている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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